「かっぺ」とは何か

 わたしたちは、自らを「かっぺ」と定義する集団です。え?かっぺ?何それ?と戸惑う人も多いでしょう。「かっぺ」ということばは、今ではもうほとんど聞かれることがなくなりました。もともとは「いなかっぺ」を短縮したことばです。就職や進学などで大都市、特に東京に出てきたものの、田舎じみた振る舞いが抜けきれない地方出身者を揶揄する意味で使われてきました。一般的に「かっぺ」とは他人を侮辱することばであり、たとえ地方出身者だとしても「かっぺ」のレッテルを不快に感じ、拒否するのが普通でしょう。
 
 一方で、東京に出てきた地方出身者は、それまでのことばや習慣を忘れ、東京のことば(標準語)や都市の価値観に順応することを強いられてきました。積極的に同化しようとした者、やむをえずそうした者、あるいはそれに抵抗した者、さまざまいるでしょうが、構造としては、訛や田舎しい態度を取らず、いかにも都会的なことばを話し、都会的な振る舞いをすることが長らく奨励されてきたのです。
 
 そもそも日本にとって、いや、世界にとって、近代化するということは、そういうことでした。近代的な社会システムは、中央に大都市を置き、地方を周縁化して中央に従属させることで成り立っています。わたしたちはそれを、資本主義、国民主義帝国主義植民地主義など、様々なことばであらわします。しかし、ごくおおざっぱにまとめると、これらの制度はすべて、支配的な中央と従属的な周縁というヒエラルキー構造によって成り立っているのです。
 
 「かっぺ」とは、この支配者から従属者に対して投げつけられたレッテルであり、地方出身者は自らの「かっぺ」性を否定し、支配者の文化を身につけようとしてきました。それによってはじめてかれは、「近代的市民」として認められるのです。
 
 しかし、そのような強要された「近代性の身体化」が、歪みを生み出さないわけがありません。ここに、3人のかっぺたちが記した「かっぺの逆襲」所信表明があります。

それぞれ立場の異なったかっぺたちが、違った視角から記した所信表明であり、その内容をひとつにまとめることはできないかもしれません。しかし、その動機にあるのは、「中央-周縁」構造のなかにある様々な歪みに対して、その歪みを様々な場所、さまざまな立場において感じ取った違和感であることは間違いありません。
 
 「かっぺ」とはいったい何でしょうか。近代化とは「中央-周縁」の二分的な関係を身体化することだとすれば、それに当てはまらないマージナルな存在や関係は切断されることになります。近代人の思考からいえば、それは矛盾であり、残滓であり、がらくたであるからです。近代的思考はそういったものを「かっぺ」とよび、廃棄してきました。そして、近代的な(「文明」的な)社会を構築してきたのです。
 
 しかし、その結果が、原発であり、米軍基地であるとしたら?地方の貧困であり、都市における地方出身者の使い捨て労働たとしたら?農業や林業の荒廃であり、公共事業への依存であるとしたら?いったい、こうした問題について、「中央-周縁」の二分法を内面化したわたしたちが、問い直すことができるでしょうか?
 
 わたしたちはもはや、上にあげたような問題が、問題であることを知っています。しかしそれを知っていながら、その問題に踏み込むことを躊躇し続けています。わたしたちは地方を犠牲にして成立する豊かさを知ってしまっているからです。たとえば「かっぺの逆襲」のメンバーは、今のところ全員、少なくとも10年は首都圏で生活しているのであり、その豊かさを享受してきたのです。
 
 しかし、わたしたちの中に呼びかけてくる何かがあります。3.11がきっかけであったことは否定できません。東北被災地に対して、あるいは福島に対してわたしたちが眼を向けるたびに、わたしたちが都会の生活を行っていく過程において捨て去ってきたり、割り切ってきたものが、今ふたたび浮上してくるのです。すなわち、わたしたちの中にある「かっぺ」が、頭をもたげてくるのです。表面的な「被災地がんばれ福島がんばれ」ではなく、問題の本質についてきちんと考えるよう、わたしたちに迫るのです。
 
 わたしたちは結局、「かっぺ」に逆襲されたのです。いまや、わたしたちは「かっぺ」です。いえ、わたしたちは最初から「かっぺ」だったのに、それを忘れてきていただけだったのです。そして、大都市と地方のあいだにある歪みに眼を向けるものはすべて「かっぺ」なのです。
 
 「かっぺ」は伝統主義者のことではありません。近代において伝統とはすべて再帰的なものであり、近代と結びついているからです。「かっぺ」とは反近代主義者でもありません。なぜならばすでに述べたように「かっぺ」自体がそもそも、近代によって構成されたものだからです。
 
 しいていえば、「かっぺ」とは反国民主義反帝国主義、反植民地主義、そして反資本主義であるのかもしれません。「かっぺ」は「国民」に異議申し立てをします。「かっぺ」は「国民」を分断し、みせかけの統一を破棄します。「国民」とはひとびとを繋げることによって分断を煽るイデオロギーにほかなりませんが、「かっぺ」はひとびとのあいだにある断絶を直視することによって、新たなつながりの可能性に期待するのです。
 
 3.11以降、中央と地方の対立などまるでなかったかのように、「がんばろう日本」という一致団結ムードがつくられようとしています。また、その団結ムードに水をさし続けている反原発運動においても、構造的対立の問題を脇に置くかたちで、東京の運動体によって「被災地との連帯」が訴えられています。このような光景に直面するたびに、わたしたちの中にある「かっぺ」たちが、うずうずしてくるのです。
 
 こんにちでは、なんであれ根本的な構造の問題を提起しようとすると「今は緊急事態である」「考える前に行動せよ」という声によって掻き消されます。しかし、中央と地方の問題は、3.11以前からずっとあった問題でした。地方はずっと、中央によって、「考える」暇もなく「行動」させられてきたのです。スラヴォイ・ジジェクという思想家は、こんなことを言っています。

http://d.hatena.ne.jp/flurry/180008
 世間一般の緩い基準においてでさえも、「単なるお喋りを止めて、何かを行いなさい!」という昔からの格言は、口にすることのできるもっとも愚かな事柄の一つである。
 最近の私たちは、沢山のこと――外国への干渉や、環境破壊――を行い続けているのだ。
 おそらくは、一歩下がって正しい事柄について考え、発言するときである。
(The Audacity of Rhetoric)

 首都圏あるいは大都市に住んでいる「かっぺ」たちは、地方を従属させることによる恩恵を受けることによって、「考える」暇があるという「特権」を得ています。であるからこそ、今が「考える」ときなのです。そのために、わたしたちは「かっぺ」を名乗るのです。